同棲十年の良人を捨てゝ 白蓮女史情人の許に走る (3)

<<(2)より続く>>


青春の力に 恋の芽生え
 「指鬘外道」の出版打合せが縁の初め
  忘れがたき別府の一夜


 斯うした背景に立った筑紫の女王も、いたづらな名門の出というのっぴきならぬ因襲的の桎梏にしっかりと囚われて、煩悶と懊悩の日々を血も滲み出る様な人知れぬ涙の裡に送っていた。
 

黄金の針金


に編まれた籠に飼はれた小鳥の不自由さは、やがて慰めの歌となって現れた。それは心の底から迸る血の結晶であった。熱い涙の滴りであった。滾々として湧き出づる夫人の詩才は自由を求め、真の愛に到達すべき対象を求めたものが多かった。
 筑紫の歌人白蓮の名はいやがうえに高くなった。偶々大正七年の雑誌「解放」に白蓮女史はさらに新作脚本「指鬘外道」の一篇を発表した。そしてこの「解放」の編纂をして居たのは宮崎龍介君等の

吉野博士を中心とする

帝大法科新人会の一派であった。
 評判のよかったこの脚本は単行本として刊行することになったので、別府にいる白蓮夫人に打合せの為め社員を派することになった。これが抑々二人の相知る機会となったのである。
 其の時分には宮崎君はまだ大学法科三年の学生で、新人会が新しき社会運動の源泉として活躍して居た黄金時代で宮崎君はその中心となって活躍し、若い溢るゝばかりの

元気に充ち満ちていた。

そして梅も散った大正八年の一月末九州湯の町に遥々孔雀のやうな女王白蓮女史を訪ねた。
 現在の「生」に対する心の底の悩みを誰と打ち明けて語るべき周囲を持たなかった夫人も、宮崎君の素直な元気な態度にひどく感激した。夫人の心の中に久しく憧れのあるものは冷え切っていた心の奥土に新たな芽生えを感じてきた。そのあくる日もそのあくる日も夫人と宮崎君とは

別荘に語り合った。


折柄今は吉井伯爵嗣子勇氏に嫁いだ柳原伯の令嬢で白蓮夫人の姪福子や令妹徳子も泊まりあわせていたので一夜歌留多会を開いた。
 歌に理解を持つ白蓮夫人が「詠み」の合間に「人知れずこそ思ひそめしか」恋歌の札数を宮崎君にも説いたりした。歌ならなくに白蓮夫人の心にもそれは知る由もないが、斯うした春の別荘の一夜をいまも宮崎君は忘れ得ぬ印象の一つとして語って居る。
 別府に二三日を滞在して宮崎君が

帰郷の途に就くその日、

白蓮夫人は門司行きの宮崎君を同じ汽車に小倉まで見送った。腰打ち明けて並んだ夫人は、車中に初めて生に対する苦悶の叫びを発したと云っている。
 「伝右衛門氏別邸は福岡にあるので白蓮夫人は本邸にかへる道序であったのです」
 宮崎君はさう云って居るさうだが、それはさう聞いておかう。
 

電報で恋の歌
 宮崎君の机上に堆く


 宮崎君が東京に帰ってから間もなく白蓮夫人からの音信は「解放」の編集室に届いた。三通、二通と日として欠かさぬことはない有様だったので、周囲の若い同人連にはその頃から噂が高くなった。
 便りの度重なるにつけて捲きこめた夫人の情は段々と熱く、年長けた夫人の心持ちを詩才にまかせて青春の宮崎君の心をかき乱したことも多かった。
 「南無帰依仏まかせまつりし一筋の心としらば救はせ給え」とか「伏姫の犬にてもよし誠あらば身を寄せむとし思ふ一時」とか愛を求めて切なる悲痛の声はこの頃夫人の作として世に現れた。
 

或る時は

又心急かるゝままに激しい情念を電報で、歌を宮崎君に寄せたことさへある。少時も耐へ得ぬ心の悶えを訴へて来たのであった。その間には幾枚かの短冊も宮崎君の机上に郵送されて来た。今では溜り溜って優に一巻の「踏絵」ともならう、優に一巻の「几帳の蔭」ともならう程に達した。

<<(4)へ続く>>



大正十年十月二十二日 東京朝日新聞

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