他人に姓名盗用され 知らぬ間に前科者!

慎重に審理もせず判決した
 東京区裁判所大失態


 神聖公正なるべき裁判で、一被告が実在の他人の姓名を盗用したまま判決を下された結果、無実の人が前科者の烙印を押されてゐることを発見したといふ聖代にあり得べかざる奇特なる事件が東京区裁判所で起った。
 前科者の汚名を着せられた者は弁護士に泣き込み、弁護士は裁判所の重大なる誤判決なりとし、非常上告又は再審理によって青天白日の立証を求めると同時に、裁判の責任をあくまで追求せんといきまき、区裁判所では初めてその事実を知り、裁判所並びに検事局では審理の経過を目下慎重に詮議する等、厳正なる法廷のため、その曲直をあきらかにせんとし、今法曹界並びに社会的の問題化さうとしてゐる。

被害者は音楽学生
 同級生に名をかたらる


 事件と云ふのは昨年九月小石川、王子両署管内を荒らし回った窃盗犯人を王子署で検挙取調べたところ、住所不定○○といひ犯行を逐一自白したので、そのまま送局し東京区検塚検事(仮名)も僅窃盗事件のこととて、事実に相違なしとして簡単な調べの後直ちに起訴、永峰判事(仮名)係で公判となったが、審理の結果も被告は同様事実の申し立てをするので、何の波乱もなく結審となり、○○は懲役十月執行猶予三年のは結を言い渡されそのまま服罪してしまった。
 そこで裁判所から通知を受けた郷里大原役場でもその手続きを取り、ここに○○と云ふ一人の前科者が出来上がった。
 
 ところが奇怪なことに、ここに真正真明○○と云ふ青年が住んでおり、帝国音楽学校に通学しておった。
 この冬休み、その○○が就職運動かたがた久しぶりに郷里に帰ってみたところ、意外にも郷里から前科者扱いされるので、驚いて警察その他心当たりを聞いて回ると、思ひもよらぬ自分が東京で盗みを働いたかどで懲役に処せられているとの話なので、気も転倒せんばかりに驚き、この不可解な事件の解決方を正木弁護士に持ち込んだ。

 正木氏もこの稀有な事件に義憤と興味を感じ、極力事実を調査したところ、これは全く○○の大津商業生時代の同級生であった近藤某が巧に○○に成り済ましてゐたことが判明したので、両者の写真その他証拠書類を携へ、区検事局上席検事に判決の取消を申込んだが、当の偽名犯人近藤は執行猶予で未決を出たまま行方をくらましてゐるので、事件は一層難しくなった。

関係当事者の全部に落ち度


 正木弁護士の調査によると、偽名犯人の自白は一見真実のやうに見えるが、少し注意すれば年齢が一つ違ってをり、原籍も大久保であるべきを大原と云ひ、戸主治一を米吉と出鱈目を述べてゐる。
 警察、検事局、裁判所、村役場そのどれか一つでも今少し調べを慎重にして居れば、この誤りは直ちに発見されるべきだったのだ。
 しかも検事局では別に犯人そのもの及び犯罪事実には何の間違ひもなくただ名前が違っていただけだから、取り立てて誤判といふわけにはいかぬ。従ってこの誤りを訂正するには単に○○の前科記録を訂正すれば好いので、非常上告とか再審手続きをとる場合とは考えられぬといふので、○○の前科者として蒙った汚名は何等償はるべき訳がない。

飛んだぬれ衣
 本物○○君語る


 「全く驚きました。始めはあまり馬鹿馬鹿しい間違ひなので、問題にする気もしませんでしたが、何しろ今年就職なので就職にも差支えるし、第一郷里の母や兄弟が肩身を狭くしてゐるのが気の毒なので。
 始めは自分で調査してみましたが、郷里の警察では東京の事件だからとて要領を得られず、王子署へ行ったところ、「そんな事件はあったが、自分で悪いことをしてなければ好いぢゃないか。そんなことをいちいち取り合ってられるか」と剣もほろろのあいさつに取り付く島もなく、正木さんにお願いしたのです。

すぐ取消の手続きを取る
 秋山上席検事談


 間違ひのあったのは事実だが、こんなことは間々あるので決して稀有な事件ではない。大体犯人が完全に名前を語ってゐれば、それが前科者でもない限り、いかに判検事でもなかなか見分けはつかぬ。殊に東京区裁判所では非常に事件がふくそうするので、窃盗事件などいちいち原籍地の回答を待って判決を下してはゐられないので、これを判検事の誤判と即断することは出来ぬ。殊に今度のやうに年齢、原籍地名、戸主の名前から判決を通知された村役場の方ですぐ誤りを発見して「該当者なし」として差し戻すべきで、失態といえばむしろそちらにある。もちろん偽名であることが確定すれば、○○の方の前科はすぐ取消手続きをとる。

名誉上の問題だ
 三輪監督判事談


 まだ何の報告も受けてゐない。然し起こり得る間違ひだ。これと云ふのも当裁判所では余り事件が多すぎるので、原籍地への調査が十分にできないからだ。判決の更変については事実を知らぬから確言は出来ぬが、判検事の処分については、ほとんど今の裁判所の状態では不可避の誤りだから懲戒、けん責は気の毒と考へる。当人に対する補償といふことも別に実際上の処分を受けたわけでもないのだから問題にならぬが、名誉上の問題は大いに考えてやるべきだね。

東京朝日新聞 昭和七年二月一日

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